「三千世界の鴉を殺し」




「君は野に咲くあざみの花よ 見ればやさしや寄れば刺す」






その日は、本当になんでもないいつもの木曜日だった。
いつも通り大量の昼飯を作って学校へ行き、真面目に授業を受けた後三人で昼飯を食べ、これまた真面目に午後の授業を受けて、部活があるという百目鬼を置いてひまわりと共に帰路についた。
自分はこれと言っていつもと変わったこともしなかったし、それこそ形もないものに呪われるような落ち度のある行為をした覚えも断固として、ない。
そう、その日がいつもと変わっていたところと言えば、久々に侑子のミセのバイトが休みだったことと、もう一つ。あのことくらいだ。

「それじゃあね、ひまわりちゃん。バイバーイ!」
「また明日ね、四月一日君」
「ぴー!」
蒲公英が宙を数度旋回し、ふわふわと揺れる髪の毛の合間、ひまわりの肩に着地する。いつもの四つ辻を、ひまわりは右へ、四月一日は真っ直ぐ行く。いつもなら左に曲がって、百目鬼の寺の前を過ぎてからミセに行くのだが、今日はバイトは休みだ。家に帰って課題を片付けたあと、ひまわりに借りっぱなしの漫画を読んでしまおうと思っているところだ。
笑顔で手を振ってから、四月一日は家路を歩く。
「さーて今夜は何にすっかなー。久々に一人だし、なんか簡単なスープと、魚でも焼いて……」
独り言を言いながら意気揚々と歩いていると、
「……ん?」
黄色く傾いだ陽が照らす路地の上に、円い影が一つ落ちている。いや、よく見るとそれは黒に塗られた和傘で、和傘を差した女性がこちらに背を向けてうずくまっているのだと分かった。女性は着物を着ているらしく、白藍染めの裾と、細くなまっちろいくるぶしが傘の下から覗いている。
「あの、大丈夫ですか?」
四月一日は、その和傘の背に向けて声を掛けた。今日も暑かった。和装で出掛けて、あまりの蒸し暑さに気分が悪くなったのかもしれない。
女性は四月一日の声に少しだけ振り返る。傘が斜めに傾ぎ、ふき漆の草履がコロ、と鳴った。
「あの、気分悪いんだったら日陰にでも……そこに公園あるし、もしあれなら救急車でも……」
「……」
膝に手をついて語り掛けると、女性は傘をさらに倒した。結い上げられた長い黒髪が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「あ……?」
一瞬、四月一日は錯覚のような感覚に囚われた。
無表情にこちらを見る、女性かと思っていたその顔は、美しい男のものにも見えた。四月一日よりも幾ばくか年が上だろうか。まるで白粉を塗ったようなつるんとした白磁の顔。たおやかな容姿に似合わない、少しだけいかつい鼻筋。真っ赤な紅をさした目元はまるで花魁か、その風貌とも相まって歌舞伎の女形のようにも見えた。
四月一日と目が合うと、彼女は――もしくは彼は――ぽちりと赤い唇を少しだけ吊り上げた。苦しそうでないことに安堵して、四月一日も少しだけ口を笑わせた。
「あの、平気ですか」
今一度問うと、彼女は黒い和傘を降ろし、その場に片膝をついたままこちらに向き直った。白藍の着物に、金糸の道行を着ている。コロ、と草履が鳴った。
「……いいにおい」
「え?」
突如放たれた台詞に四月一日は多少混乱したが、すぐに自分の抱えた重箱のことだと思い当たった。
「ああ、これ、昼飯の入ってたやつですよ。よく食うやつがいるからもう空だけど……あ、もしかしてお腹空いてるんですか?」
でも、今の自分は何も持ち合わせていない。手をぱたぱたやりながらどうしたものかな、と考えていると、彼女が少しだけ笑った。小首を傾げ、斜に四月一日の顔を覗き込む。まるで値踏みするような、粘着質なその笑み。男のものか女のものか分からない、低く囁きような声。
「いい匂い、美味しい匂い…綺麗な匂い…優しい匂い……」
「あ、あのー?」
四月一日は困って、途方に暮れるような顔をした。熱気に当てられて、混乱しているのかもしれない。
とりあえず人を呼ぼうか、と、近くの民家に目を遣ったとき、相手がす、と繊手を伸ばした。深海魚のように白い、腕が伸びる。爪はハッとするほど赤かった。
「有難う御座います。大丈夫ですわ」
今度はいくらかしっかりした、女の声だった。四月一日は安堵して、その手を掴み、彼女が立ち上がるのを手伝った。瞬間、
「…つっ!」
ちくり、と、手に長い針が刺さったような痛みが走った。思わず手を放すと、彼女は何事もなかったかのように微笑んで、自ら立ち上がった。驚くことに、その背は四月一日よりも高く、傘や草履の高さも含め脇の塀を越えるほどだった。
四月一日は慌てて自分の手のひらを見る。
赤いものがついているはずのそこは、何ともなっていなかった。あれ?と二度見してみても、手を握り、開いてみても、今さっき確かに刺されたと思った手のひらは何ともなかった。
「どうか、いたしまして?」
たおやかに尋ねる。朱の襦袢から覗く細い襟首が、異様に長く見えた。
「い、いや、なんでもないです。すいません、返って心配させちゃって」
鼻の頭を掻き掻き言うと、彼女はにこりと笑って、「それでは」と頭を垂れた。カラコロと草履の音が遠ざかる。
四月一日は暫しその場で、ぼうとしていた。ふと振り向くと、和傘を差したまま彼女もこちらを見ていて、見間違いか、その白い首が胴体よりも長かった。慌てて目を擦ると、すでに彼女の影は和傘に隠れて見えなかった。カラコロという音は遠く響き、曲がり角を曲がったところで、絶えた。





「なぁんか変な目に遭ったよなー」
アパートの卓袱台でノートに向かいながら、四月一日はシャーペンをぶらぶら振りながら嘯く。
(綺麗な人だったんだけど……なんか……)
あの時の白首を思い返して、少しだけ背筋が寒くなった。手のひらを見る。いくつかの包丁だこと、刻まれた皺。どの線が生命線で頭脳線だっけ?と眉根を寄せる。
「いかんいかん、集中集中」
四月一日は慌てて、辞書を捲って和訳の問題に意識を戻した。いつもは侑子のミセで夕食作りの合間にやるか、夜に帰宅してから大急ぎで片付けてしまうので、こんなに真面目に課題に向かうことが出来るのは久しぶりだ。
「Not a word did he say all the while. Never in all my life have I been so strongly attracted to any man.……」
つらつらと英文をノートに書き写している間、外でカラスが鳴く声が聞こえていた。
「う……」
ピリオドを打ったあと、四月一日は呻いた。
なにやら関節が痛い。ギシ、と軋むような音を立てて、関節が鳴っている。
「やばいな……風邪引いたかも……」
思い始めたら進行は速かった。急激に体温が上がり、手のひらから上体が痺れる。
「な…なんだこれ。夏風邪……?」
今年も夏風邪は長引くとクラスで級友が噂していた。まずいな。四月一日は思う。今日はまだしも、明日一日は学校も、バイトだってある。休むわけにはいかない。
「ちょ、これ買い物行くの中止……夕飯まで寝とこ……」
立ち上がろうとしたが、関節に痛みが走ってままならない。四月一日は卓袱台を端に寄せると、ずりずりと這って押し入れに近付いた。襖を開き、上段にある布団を引き摺り出す。
(あとでおかゆでも炊いて食べよ……今はちょっと、休まない、と……)
と、ぐぅっと突かれるように胸が痛んだ。乳頭を刺すようにズキンズキンと痛みが襲う。四月一日は胸を押さえてその場にくずおれた。
「ちょ、これ、や、ば……」
今年の夏風邪は関節にくるんだっけか? そんなことを思いながら、にじにじと布団とタオルケットの間に入り込む。もぞもぞと制服のズボンだけ何とか脱いで、眼鏡と一緒にその場に放った。
ズキン、ズキンと、手のひらが痛む。
(ねつ、何度だ、ろ、)
そう思ったところで、四月一日の意識は途切れた。
カラスの鳴く声が、遠くで聞こえた。



「……っは」
ギシギシと関節が鳴っている。
骨を砕き、筋肉が削られるような痛み。酸を浴び、肉が溶けるような痛み。万力に掛けられているような圧迫。ひっきりなしに汗が横になった体を流れ、浅い呼吸を繰り返す。深く息を吸おうにも、体中が痛くてままならない。
「は……は……」
体が熱い。まるで溶接される鉄にでもなったかのように、四月一日の体は溶け出しそうな勢いで熱せられる。カンカンと体の内側から石炭を焚かれているようだった。
「…だ、れ、か……」
譫言のように呟くと喉が潰れた。ひゅっと息が漏れる。ギシギシという責め苦は続いている。
(誰、か――――)

ハッと気付いたのは布団の上だった。
「あれ? おれ……」
その場に身を起こす。あれほどの痛苦を感じていたのに、今は体は何ともなかった。
(ゆめ……?)
一瞬そう思ったが、額に手を遣ると、そこは汗を掻いたせいでべたべたとしていた。やはりあの酷い夏風邪は本当のことだったらしい。
(なんだ、すげぇしんどかったけど、寝てたせいかな。もう治ったんだ)
良かった、と思い、それから気付いた。外がいやに黄色っぽいことに。
「げっ! 今何時だ!?」
慌てて眼鏡を掛ける。
朝焼けか、と焦ったのだが、すでに枕元のデジタル時計は次の日の16時を過ぎていた。ばさりとタオルケットをはぐって、その場に立ち上がる。
「へ!?嘘だろ!? おれ丸一日寝てたのか!? 学校無断欠席しっ……ああああひまわりちゃんにまた心配掛けちまった……!! つうかもうバイト行かないと……!!!あああああああ!」
下半身トランクスに靴下状態で四月一日は暫し手足をばたつかせながら大恐慌に陥った。はーはーと肩で息をしながら、とにかく落ち着けと自らを宥める。
(いいから落ち着け四月一日君尋! とりあえず明日明後日は休みだし、ひまわりちゃんにはあとでミセの電話を借りて連絡すればいい。今はとにかく、バイトに行かないと侑子さんに詰られる……)
そうと決まれば布団を片付けて着替えて……と布団を振り返ったところで、四月一日は「え?」と固まった。
「…………なんだ、これ……?」
布団の下半分。そこが妙にくすんで見えた。
慌ててかがんで見てみると、そこには細い金色の産毛が大量にくっついていた。
「…………なんだ、これ?」
その位置を見て、自分の脚に目を遣る。トランクスから伸びた白い二本の脚。そこはつるんとしていて、まるで白磁の様相だった。
「おれの毛……? 寝てる間に抜けたのか?」
さすってみると、すべすべと気持ちのいい感触が手のひらに伝わってきた。もとより、四月一日は毛深い方ではないが、これではまるで脱毛エステにでも行ったみたいだ。正直男がこれじゃ、キモチワルイ。
「なんだよ、これじゃ体育のときとかに恥ずかしいじゃねぇか!」
カカーと赤くなって、四月一日はごねる。
最近の夏風邪は毛も抜けるのか?と疑問符をたくさん頭の上に飛ばしたが、とにかく今は急がなければ。布団は帰ってからガムテープで綺麗にすればいい。早く服を着て、侑子のミセに……。
「う……でもな」
夢うつつの昨夜、体中汗みどろになったことを思い返した。首の辺りをさすっていると、やはり汗の跡でぎとぎとしている。
「ちょっと遅れるけど、やっぱシャワーだけでも浴びていこ」
そう思い立って、四月一日は勢いよく立ち上がった。
ズボンを拾い、新しい下着とシャツを持って、その足で浴室に向かう。脱衣所の扉がガラと閉まり、中からごそごそと衣擦れの音が聞こえる。
数秒後。

絹をも裂くようなすさまじい悲鳴が、アパート中に響き渡った。





三十分ほどして、夏にもかかわらず学ランを着、綿入れ半纏を羽織った四月一日がアパートを飛び出して行くのを、電線の上からカラスだけが見ていた。










続く→















〈2014/08/18〉

ついに始めた女体化。
もうやり尽くされてる感はあるのですが、自分なりに少しずつ。



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