「…驚きました」
感想と言うより感嘆と言った方が近い声音でニアは言った。メロは得意そうにふんと鼻を鳴らしてワーキングチェアに座るニアを下から見上げている。
ニアの手帳に書き付けられた文字は、見知らぬ記号を模写して書いたように(例えばアメリカで育った幼児がロシア語を写し取って書いたように)系統的なつながりのない線で構成されていたが、それでもきちんと意味を理解して書かれた数式だった。数字と記号、数種類のギリシャアルファベットから成るその数式は、どれも現役の大学教授でも解くのに時間を費やす問題のはずだった。
「単位放線は好きなんだ。もっと難しいのでもできる」
そう言うメロを見て、確かにニアが最初に出した問題では馬鹿馬鹿しくて解く気にもなるまいと納得した。



メロはここ数日構内に人がまばらになる時間になると、チョコレート目当てに急ごしらえのニアの研究室へやってくるようになった。ニアがデスクに座り、気怠げに学生のレポートに目を通している間、メロはチョコレートを囓りながら本をめくったり、電源の付いていないキーボードを気まぐれに叩いたりしていた。
その日もメロは生ぬるい風の吹き込む窓からニアの部屋に入り込んできた。メロは相変わらずニアを警戒していたが、普段他の人間と接点を持つことのない彼は誰かと同じ空間にいることを楽しんでいるようだった。見えない境界線を張ってチョコレートを与えられるとき以外はそこから近づいてくることはないが、ニアは特に気にすることもなかった。がたがたと下らない話題を次々振り掛けられることが嫌いなニアにとって、黙って側にいられることは大した苦にならない。珍しいペットを飼っているような気持ちだった。
その日、仮眠用のソファにもたれかかってニアの蔵書をめくっているメロを見て、ニアは彼の知能レベルを確かめたくなった。
「字が読めるんですか」
そう話しかけると、メロは気を悪くしたように無言でチョコレートをぼきりと噛み割った。
馬鹿にするつもりはないんです、と一言付け加えてからニアはメロの方に体ごと向き直った。
「最初は話ができるのかどうかも分からなかったものですから」
「レクチャーで黒板に書かれるようなものだったら読める」
メロはぶっきらぼうに答えた。
「講義を聴いてるんですか」
「他にしたいことがないから」
ニアは床を蹴ってキャスターの付いたチェアを動かし、ぺたりと座り込むメロの近くまで移動した。メロは警戒するように体を避ける。彼の手にしている本を見ると、公式の解説集だった。円や線、たくさんの記号がページのほとんどを埋め尽くしている。
ニアは機械工学専門で数学は囓る程度なのだが、工科大学レベルの公式なら全て把握している。
ニアは胸ポケットから手帳を出してそこにパブリックハイスクールで出されるレベルのベクトルの問題を書き込んだ。
「この問題解けますか?」
その言葉を聞くと、つまらなさそうにページをめくっていたメロの目に爛々とした輝きが生まれた。膝立ちになってニアの方に身を乗り出し、手帳を奪い取る。
さっと図と数式に目を通して、メロは唇を尖らせた。手帳をニアの方に乱暴な手つきで放ると、分厚い書物をぱらぱらめくり、すぐにそれにも飽きたと言うように表紙を叩き付けた。
少し難しかっただろうか、という思いが頭をよぎった。しかしかっかと怒っている様子のメロを見て、ニアは手帳とその後ろ姿とを見比べた。その背中は先程字が読めるかと聞いたときと同じように、馬鹿にするなという苛立ちを滲ませている。
彼のプライドを再び傷付けてしまったのかも知れない。
そう思ってニアは、思い付く限りの難解な因数分解、ベクトル、3次方程式の問いを3つ、新しいページに書き付けた。
「これなら解いてくれますか」
このカレッジの講座を理解できるなら中程までは解けるはずだと思った。むっすりした顔で振り返ったメロは、再びニアの手から手帳を受け取ると、慣れない手つきでペンを握りしめ、床に突っ伏してすぐさま解を書き込み始めた。



手帳の上をよれよれと這うメロの解答に、ニアはデスクの上から赤いボールペンを取って大きく丸を付けてやった。
メロはその赤い丸を見て、足をぱたぱた床に打ち付けた。誰かに自分の知識を認められたのが嬉しくて仕方がない、と言った感じだった。外見の年齢に不相応な満面の笑みを浮かべてメロは手帳を眺めている。
メロは床に置いた手帳のページを一枚めくり、白い歯を見せながらニアの方に差し出した。“もっと出せ”というようにニアを見上げる。
ニアがもうおしまいです、というとメロは不服そうに口をへの字に曲げた。
「今度はメロが私に問題を出してください」
そう言うとメロは不審そうに首を傾げた。
「メロが考えた問題を私が解くんです。とびきり難しいもので構いません」
ニアは手帳をメロに差し返しながら、真っ白なページを指でとんとんと叩いた。ニアはメロの力の上限を測りたかった。意味を測りかねていたメロも、ニアの指と顔を見比べると再び瞳を光らせた。軽く唇を湿らせると、床に突っ伏してペンを走らせ始める。
次々と怪しげな記号で埋まっていくページを見ながら、ニアはメロの手つきを見ていた。
メロはほとんど紙に鼻をくっつけるようにして、親指と人差し指、中指でペンの中腹辺りを握りしめて書き物をしている。あれだけの難問を氷の上を滑るように解いていったくせに、ろくに教育を受けていない子どものような握り方をしているのが面白くて、ニアはにやりと目を細めて笑った。
「これをLie群の変数導入で解け」
メロは数式を書き終わると、制限の部分は口でニアに説明した。その部分はうまく文章で書けないのだろう。
ニアはメロから手帳を受け取ると、ざっと問題に目を走らせた。
「………」
ニアは抱えた膝に顎を乗せて、ペンを持つ手で髪の毛を弄り始めた。攻めあぐねているニアの様子を見て、メロは満足そうに足をぱたぱたやっている。
ニアは少し紙の上にペンを走らせ、2つ目の数式の途中で手を止める。そしてまた少し考えるように膝に顎を預ける。
「……少し時間をもらえますか」
メロはそれを聞くと、にっと尖った犬歯を見せて頷いた。


結局ニアが数式を解き終えたのは、その翌日の午後だった。









〈2005/06/28〉
まさか専門の人見てないだろうな……このページ。