目を開けると辺りは薄暗かった。
視界には、薄墨を流したようにブルーグレーに染まった自分の前髪だけが映り込んでいる。腕を枕にして伏していた自分の膝から顔を上げると、生ぬるい風が頬を舐め付けるように撫でていった。

「………」
腕に直接当たっていた額が熱を持ってじんじんする。ミラーなど持ち歩かないニアには確認のしようがないが、多分赤い跡が円く残っていることだろう。この姿勢で眠った後、何度か人に指を差して笑われたことがある。
ニアはぼんやりと寝起きの熱を含んだ頭を振りながら、視線を横に泳がせる。半分吹き抜けのように作られたカフェテラスにはもう誰の姿も見えない。テラスと外とを仕切る大きなガラス戸は半分ほど開けられたままになっており、生ぬるい風と共にオレンジ色の外灯が差し込んでニアの足下あたりで止まっていた。外灯に惹きつけられて飛んでいる羽虫の影が、地面で本物と同じように踊っている。
談話室の役割をするこのテラスには、昼間なら必ずゼミの合間を縫って談義に花をさかせる学生達が座っている。普段若者の声や明るい日光で溢れかえっているこの空間が、今はまるで違う場所のように静まりかえっていた。壁をくり抜くように設けられたスタンドカフェの中にもすでに人の気配はない。広い空間の隅に備え付けられた自動販売機のブーンというクーラー音だけが響いていた。
ニアはしばらくの間そのまま、薄暗い空間に幽霊のようにぼうっと座っていた。霞がかった頭をしっかりさせようと、目の前のテーブルに置いてある飲みかけのミルクコーヒーを一口すする。表面には白く脂肪が浮いていて、酷くぬるかった。
コーヒーの入った紙コップを置いて腕の時計を見るとすでに9時を回っていた。講義が終わって何人かの学生と話した後すぐここへきたのだから、都合4時間は眠っていたことになる。眠っている途中で何度か声をかけられた気もするが、記憶は朧気だった。
ここしばらくろくに休息らしい休息を摂っていなかったからだろう。下手をしたら朝まで寝ていたかも知れない。4時間で目を覚ますことができたのは幸運とも言える。
帰るか。
ぼんやりそう考えてカップに手を伸ばす。投げやりに伸ばされたニアの右手はカップの縁に当たり、カップはコンと音を立てて倒れた。カップから残り少ない中身がザッと零れ出した。
ニアは軽くため息を漏らして、脇に置いてあった自分の鞄の中を漁る。手探りでティッシュケースを掴むと、その隣にあった固いものに手が触れた。
「……?」
掴みだしてみると、茶色い包装紙に包まれた一枚のチョコレートだった。





「心臓に悪いから電気くらい付けてください」
昨夜のことだった。ニアは研究室のドアを開けると、暗がりに座り込むメロを見て細く息を吐いた。ニヤリと微笑んだ形のメロの目は、廊下から差し込む電灯を受けてギョロギョロと光っている。ノブを掴んでいない方の手で壁のスイッチを付けるとパッと部屋は明るくなった。
「不便なやつ」
メロは足をぱたぱたさせて、戸口に立つニアから手の中の手帳に視線を戻した。暗闇の中でも手帳が読めるほどメロの目は発達している。
もう何回同じようなやりとりを交わしただろう。はじめにメロが真っ暗な部屋で待っていたのを見たとき、ぎょっとしてしまったのがよくなかった。以来メロはニアの部屋に電気がついていないと、かならず潜んで待つようになった。ニアの驚く顔を見て喜んでいる様子だった。

くいくい、とメロがニアの上着の裾を引っ張る。ニアはすでに心得たもので、鞄の中からチョコレートを出してメロに渡した。メロはそれを受け取るとありがとうも言わないで銀紙をむき出した。
メロのニアに対する態度は、最初にニアがメロの問題を解いた日から日に日に友好的になってきていた。毎晩ニアが来るのを部屋で待つようになり、近頃は自分から話しかけてくることも多い。食うかとチョコレートをひとかけら差し出されたこともあったが、ニアがチョコレートは好きじゃないと言うとそれはしないようになった。
メロにとって、同じ知識を持つ誰かとこうして交流することはこの上なく嬉しいことのようだった。ニアに時間ができると、メロは手帳に考えてきた問題を書き込んでニアに差し出す。逆にニアがメロに問題を出してやるときもあった。数ページしか使われていなかったニアの手帳は、2週間ほどの間に数式で埋め尽くされた。

「なんで箱に入ってるんだ?」
メロはチョコレートを囓りながら、昨日まではなかった段ボールを指さした。ニアが帰ってくる前に勝手に中を改めたらしく、ガムテープが緩んでいる。段ボールの中身はニアが昼間詰め替えておいた本と机上用品だった。
がらんと寂しくなった書棚の空間を不思議そうにメロは見上げている。ニアはソファにもたれて座り込むメロの後ろ姿を見ながら、段ボールのガムテープを貼り直した。
「明日の午前中に、送るんです」
「どこに?」
「元々私が所属するカレッジです」
「何で」
「もうこの研究室にはこないからです」
ニアはガムテープを貼り終え、ぽんと段ボールを軽く叩いた。その音に反応するように、メロはニアの方を振り向く。パキンと音を立ててメロはチョコレートを噛み割った。
「……」
メロは床に視線を落として、少し考えるようにした。視線が自分から外れたのをいいことに、ニアはメロの方に目を遣った。メロはニアの言葉の意味を把握するのに少し時間がかかっているようだったが、やがて先程と同じ調子で何で、と尋ねた。
「明日で私の担当している講義が終わります。だから私はもうこのカレッジには来ません」
そこで言葉を切ると、メロは視線を上げた。普段と何一つ変わらない少しきょとんとした顔をしていた。
「今日でお別れです」
「そう」
とくに感慨もなさそうに相槌を打ってから、メロはチョコレートを囓る。口を動かすに連れ、だんだん不機嫌そうに目が吊り上がっていった。苛々と足でカーペットを踏みつけにするメロに、ニアはいつもより穏やかな声を作って言った。
「何かほしいものがあれば、明日持ってきましょう。チョコレート?」
「いらない」
メロは最後のひとかけらを舌の上に乗せてもぐもぐと口を動かした。足を投げ出して座り込んだまま、銀紙と包装紙を一緒くたにぐしゃぐしゃと丸めて屑籠に放る。
丸い紙くずは壁に跳ね返って見事に屑籠の中に消えた。メロはそれを見て、ふん、と吊り上がった眉を下ろした。
それからふと思い付いたように、手を伸ばして床に広げられたままの手帳に指で触った。
「これがほしい」
ぱらぱらとページをめくる。不器用に書き付けられたメロの文字と、機械のように整然と書かれたニアの文字が交互に並んでいる。黒い文字列の上に被さった赤い丸をメロは人差し指でなぞった。
「どうぞ」
ニアがそう言うと、メロは嬉しそうににっと口の端を持ち上げた。
笑顔のままニアに視線を放る。ニアがにこりと笑い返すと、右手でさっと手帳を掴み、開いた窓の外へ飛び出していった。窓の外では、所々外灯で照らし出された黒い草むらが生ぬるい風にざわざわと揺れていた。





「まだあったのか」
ニアはチョコレートに目を落としながら口に出して言った。
ニアはそれを再び鞄に仕舞うと、腰を上げた。研究室に行くつもりだった。
転がるカップを掴み、隣のテーブル脇にあった屑籠に放る。カップは空中でキラキラと光る雫を数滴落としながら、吸い込まれるように屑籠の中に消えた。








〈2005/6/29〉