カフェを出たニアは、人気のない西口から工学棟に入った。入り口の蛍光灯は寿命が近いらしく、ジッとすり減るような音を鳴らしながら明滅を繰り返している。
数週間の間通い詰めた廊下だが、今日もまた歩くことになるとは思わなかった。長い廊下は木々の茂る中庭に面して作られているので、外灯の光は入り込んでこない。年月を経て黄色く変色した白壁が蛍光灯を反射し、余計に閉塞感を増していた。
長い廊下を過ぎると講義や実習を行う教室棟から研究棟へと変わる。研究棟の一階、一番隅にある予備用の研究室がニアの使っていた部屋だった。
「?」
突き当たりを左へ曲がり、ニアはずらりと並ぶドアの群れを見て違和感に気付いた。
一階の研究室の主達はマイホーム主義を通しているらしく、いつもならニアが部屋を出る頃にはどのドアの飾り窓も暗く冷たくなっていた。
だが、今夜は一番奥のドアが細く開き、温かな色の照明が漏れている。そこは昨日までニアが使っていた部屋だった。
メロだろうか。
ニアは少しだけ目を細めて一歩踏みだし、それから再び奇妙な違和感を感じた。
「………?」
メロが部屋の明かりをつけているはずがない。
メロは毎日暗い部屋の中で待っているのが習慣になっていた筈だ。第一、持ち主のいない部屋に明かりがついていたら不審がって警備員がやってくるかも知れない。そんなことをメロが分からないはずがない。
誰が、という思いを胸にニアは歩を進めた。と、
ガタンという音が小さく耳を突いた。
大きな物同士がぶつかり合う質量のある音だった。その音は細く開いたニアの研究室のドアから漏れている。再びガタという音が聞こえ、それに混じって若い男の悲鳴、「この野郎」という罵倒の声が微かに聞き取れた。
ニアは嫌な予感を感じて足を速めた。

ドアを勢いよく開くと半ば予想していた光景が目に飛び込んできた。
部屋の中央で、赤毛と黒髪の青年が弾かれたようにニアの方を見た。青年の一人は、見慣れた金髪の少年の胸倉を掴み上げている。もう片方の手は固く握りしめられ、今にも相手の頬骨めがけて振り下ろされそうに高く持ち上げられていた。
彼らはそれぞれニアの講義を受けていた学生だった。確かここへ来た初日、荷物を運び込む手伝いに来てくれた二人ではなかっただろうか。
胸倉を掴まれているメロは真っ白な歯を剥きだして相手を威嚇したまま、ニアの方へ目を遣った。一瞬思いがけないものを見たように目を丸くし、すぐさま一層鋭い目つきで見つめてきた。
青年達の足下には、ニアの手帳が投げ出されていた。開いたページにスニーカーの底の模様が浮かび、よじれるように千切れかけている。

「…それから手を離してください」
静かに、だがはっきりとした声でニアは言った。
ニアの迫力に気圧されたのか、青年達はメロの胸倉を掴んでいた手を慌ててほどく。メロは自由になると、手と足を使って素早く部屋の隅に移動した。デスクの陰で鋭く尖った歯を食いしばり、フーと唸り声をあげる。
メロの頬や顎にははっきりそれと見て分かる青痣が貼り付いていたが、散々仕返しはしたのだろう。二人の青年の顔にはメロの爪の跡が何本もみみず腫れになって浮かんでいた。
「教授……、違うんです。ここへ来たらあいつがいて」
「俺たち、先生に言われて部屋を片づけようと思ったらあいつが……」
弁解するようにそう言って、黒髪の青年がメロを指さす。暗がりで座り込むメロを見て、浮浪児か何かだと思ったのだろう。メロは見た目はほとんど人と変わらないし、汚い格好をしている。一見して誤解されても仕方がない。
今まで幽霊騒動になりはしても、浮浪児がうろついている等という噂は聞いたことがない。メロがこうして誰かに捕まったのはおそらく初めてのことなのだろう。
メロは完全に油断していたことになる。つまりここしばらくの間そうしていたように、今日もこの部屋で自分を待っていたのだ。
「ご苦労様。片付けはいいです、出ていってください」
ニアは端的に要求を口にした。青年達はうろたえる。
「でもあいつが……」
「大丈夫です。出ていってください」
「警備員を呼んだ方が」
「落第にされたいんですか?」
ぎらと光るニアの目に、少年達は身をすくませた。失礼します、と代わる代わる言って、青年達は自分の荷物を手に部屋を飛び出していった。
ばたばたと足音が遠くなっていくのを確認して、ニアは目を吊り上げているメロに向き直った。
「メロ、そこから出てきてください」
ニアがそう言うと、メロは不承不承デスクの陰から這い出てニアの側に来た。
カーペットの貼られた床に座り込んで、ぶすっとふくれている。彼にとって大変不名誉なところを見られたという自覚があるのだろう。半分ページの破れた手帳を見て、ニアはため息を吐いた。
「何やってるんですか」
「……うるさい」
「こういう騒ぎがあるとは聞いたことがありませんでした。今まで人に捕まった事なんてなかったんでしょう?」
ニアはそう言ってメロの顎に手をやった。メロは歯を剥いたが手を振り払うことはしなかったので、ニアはそのまま自分の方を向かせる。拳で殴られたらしく、青く痣になった目の下に点々と鬱血の跡が見られる。親指で上の歯を押し開けて口の中も改める。唇の端と、口の中も少し切れているようだ。
メロは苛立ってニアの手を振り払った。
「あいつら最初は一人だったんだ。お前が来たのかと思った」
ニアは少しだけ眉間に皺を寄せた。
「今日で私の講義は終わると伝えたはずです。私はもうここには来ないんですよ」
それを聞いてメロは、困ったような怒ったような顔でニアを睨み付けた。じゃあ何できたのかと責められているような気がする。うまく言葉に言い表せない感情が喉の奥辺りにつかえていた。
「もう私を待っていても仕方がないんですよ」
ニアは真っ直ぐメロの目を見てもう一度きっぱり言った。
メロは自分を待っていたはずだ。このままではまた同じように誰かに捕まるかも知れなかった。だからしっかり分かってもらわなければならなかった。もう会うことはないのだと。
メロは腹を立てたようにニアを睨み付けた。物わかりの悪い子どもを諭すように聞かせられたのが気に入らなかったのかも知れない。しばらくメロは何も言わず、殺気さえ籠もった獣の目でニアを睨み付けていた。
ニアはメロが分かるまでそうしているつもりで、じっとメロの目を見据えた。これ以上どう言葉を続けるべきなのか分からなかった。

それ以上ニアが何も言わないと悟ると、途端にメロは怯えた表情を見せた。少し逡巡してから、先程までの怒りなど欠片も見あたらない調子で口を開く。
「だけど」
視線を横に放って、メロはさらに逡巡する。人間以上に人間らしい表情で、メロはシニカルに笑った。
「だけど俺、他にしたいことが見あたらないから」
口の端を吊り上げてメロは言葉を投げ捨てた。自分の愚かさを自覚しているようなその表情は、いつも尊大でプライドの高い彼が初めて見せるものだった。
「………」
ニアが黙っていると、メロは再びニアの目をぎっと睨み付けた。笑いたければ笑え、という表情で投げやりに顎をしゃくり上げる。
ニアは右手をメロの首の後ろに差し入れると、何も言わず自分の唇をメロの唇に押し当てた。

メロはびくりと体を強ばらせたが、大きく動きはしなかった。
メロの唇を噛むように濃厚に口付けると僅かに血の味がした。さしたる抵抗もなかったのでそのまま舌をメロの口内に滑り込ませた。硬直しているメロの舌に自分の舌を擦りつけるように絡める。一層深く唇を重ねると、歯と歯がぶつかり合って二人の口の中でカチと音を立てた。自分以外の時間が止まっているのではないかと錯覚するほど、メロは何の反応も見せなかった。
尖った犬歯を舐め付けて唇を離す。間近でメロを見ると、まだ固まったままだった。
目は大きく見開かれたまま完全に点になっている。どうやらびっくりして硬直しているようだ。薄く開いた唇から細く息が漏れると、ようやくぼぅっと火がついたように頬が真っ赤になった。
初めてにしてはいやらしいキスをしてしまったと思う。しかしそれ以前に彼と触れあったこと自体が初めてだったとニアは今にして気が付いた。
未だ動くことのないメロは混乱しているようだった。頬どころか、耳や髪の毛の間から覗く細い首筋までが赤かった。
「メロ」
呼ぶと呆然とした表情のまま眼球だけを動かしてニアの方を見た。
「ここを出て私の家に来ませんか。同じ場所にいればもう危ない思いをして待つ必要はありません」
「……」
メロは言葉を忘れてしまったようにニアを見つめたまま呆けている。ニアがメロの首からゆっくり手を離すと、途端に壊れたおもちゃのようにこくこくと何度も頷き始めた。
「ただ、」
ニアがそう言うとメロはぴたりと頷くのを止めた。
「私は多分メロに酷いことや嫌なことをします。それでもいいなら一緒に来てください」
それを聞いて、メロは未だ赤い顔を不審そうに少し傾げる。そして床に落ちている手帳に目を遣ると、少し考えた後何も言わずにこくりとひとつ頷いた。














〈2005/07/01〉
脈絡無くアレでごめんなさい。あまり深く考えず文にしております……。