講堂の裏手をぐるりと取り囲む石畳は真っ暗で、林道に隔てられた大通りの外灯の弱い光がかろうじて足下を照らすのみだった。寂しい林道に人っ子一人いないのもこの時間帯にしたら当然のことで、だからこそニアはここを指定したのだった。
足下に注意して歩きながら、ニアは携帯電話の向こうの相手に必要な情報を伝えて電話を切った。それと同時に脇の植え込みを飛び越えて、黒い影が目の前に躍り出る。
「早いですね」
「お前遅い。来ないかと思った」
人間と同じ体つきをしているくせに、メロは四つ這いのまましなるような動きで石畳の上に着地する。彼は全身をゴムのように伸縮させて、地面に触れている手のひらと膝に負担をかけずに移動する方法を心得ている。
ニアは携帯電話を胸ポケットにしまってメロを見た。必要な物を持ってこの場所に来るように言って別れてから、まだ20分と経っていない。メロは研究室を出たときと同じ格好で目の前に座り込んでいる。
「持っていくものはないんですか」
「ん」
メロは黒ずんだシャツの横を少しまくり上げた。脇腹とズボンの間に茶色い手帳が挟まっている。
「それだけ?」
「ここで暮らすのに必要だったものはもういらないだろう。本はもう覚えるほど読んだやつばっかりだし」
メロは口元を少し引き締めて上目遣いにニアを見た。メロの内心の微かな緊張を読みとってニアは少し笑った。
「本ならうちで好きなものを読めばいいです」
それを聞いてメロは少し安心したようにすぅっと軽く息を漏らした。
研究室で別れる前、メロは確かめるように何度もニアを振り返ってから窓の外に消えた。“連れて帰る”という言葉をニアがいつ翻すか、彼なりに危惧を抱いていたのだろう。
「さっき誰と話してたんだ?」
聞きながらもメロは落ち着かない様子でぐるぐると円を描くように歩き回っている。
「掲示板の所にキャブを呼びました。門衛に見られずに出るには一番手っ取り早いでしょう」
「車に乗るのか?」
素っ頓狂な声をあげたメロの横でニアは自分の来ていた薄手の上着から袖を抜きながらはいと答えた。
それを聞いたメロは、足をぱたぱたさせながら唇を引き締めるようにして視線を泳がせている。緊張と高揚の入り交じった顔をしているメロを見て、ニアは密かに苦笑しつつ脱いだ上着を差し出した。
「メロの着ているものは汚れが目立ちますからこれを」
肩に着せかけてやると、メロは大人しく片方ずつ袖を通す。他人の匂いが気になるのか、襟に鼻をつけてしきりに匂いを嗅いでいる。
「メロ、立てますか」
「ん?」
「……後足で」
言ってからニアは自分の言葉に少し不自然を感じたが、メロは大して気にもとめない様子で建物に走り寄ると、壁に手を付いてすくと二本足で立ち上がった。ぼろ布に包まれた足の裏でしっかり石畳を支えている。背筋もまっすぐ伸び、こうしてみるとニアよりもほんの少し背丈が低いだけの普通の少年に見えた。
「そのまま歩けますか」
「支えがあれば歩ける」
言いながら壁に両手を付けたままメロはゆっくり前進して見せた。一歩進むごとに少しずつ腰が引けていって、5,6歩歩いたところでメロは一旦止まって体勢を立て直す。
四つん這いよりはましだがやはり少し怪しい。仕方ない、と呟いてからニアは壁に貼り付いているメロの前に背を向けてしゃがみ込んだ。何事かとニアを見つめているメロを、ニアはどうぞと一言発して促した。
大通りに出ると蛍光灯に照らされた掲示板が目に入った。ニアが呼んだキャブはまだきていない。
ニアは門に近い明かりの下に、少し体をずらすようにして立った。もうこのカレッジにはニアもメロも入ることはないだろうからそこまで神経質になる必要はないのかもしれないが、知った顔の学生や教授連中に見つかって根ほり葉ほり尋問されるのは御免だった。
メロはニアの背中にぴったり体を押しつけて、ニアの髪に顔を埋めるようにしている。
ようやく会えた母親にしがみつく迷子の子どものようにその手はニアの首にしっかり回されている。薄い布地を通して伝わるメロの体温が背中に心地よい。メロの体は少し熱すぎるように感じたが、猫だって人間より1,2度体温が高いのだからこれがメロの平熱なのかも知れないとニアは思った。
昨日までは指一本触れあったことすらない。そんな相手をおぶって家に連れて帰るなどニアは小一時間前まで想像すらしていなかった。
メロは身動きひとつせずニアの背中に身を預けている。寝ているのかと思って振り返ると、メロは猫が甘えるときの仕草のように鼻をニアの首筋にすり寄せた。くんくんとニアの首筋の匂いを嗅いでいる。湿気を含んだ温かい吐息が髪の毛を通して耳の後ろにかかった。
「…くすぐったいです。メロ」
前を向いたまま背を揺らすと、メロはニアの反応が嬉しくて溜まらないといったようにくくと喉を鳴らした。門の方で遠く車のエンジン音が聞こえる。それとほぼ同時に、ニアの耳を濡れた柔らかい肉の感触が掠めるようにすっと撫でていった。
マンションの廊下の白茶けた明かりを遮って扉が閉まると、ニアの部屋の中は真っ暗になった。
手探りで壁のスイッチを点けると、たちまち玄関は白熱灯の温かい光にぼうっと照らし出される。暗がりでも平気なメロはすでにリビングの扉の前まで上がり込んで物珍しそうに中をのぞき込んでいた。
「そっちはまだ駄目です」
ニアは玄関マットに靴底を擦りつけながら、ドアノブに手をかけていたメロを言葉で制した。メロはきょとんとした顔で振り向く。
ニアはとんとんと自分のシャツの肩口を指さした。横一文字にメロの手のひらの跡が黒く残っている。
「まず手足と体を洗ってからです」
「………」
メロは不満げにリビングのドアにはめ込まれたガラスを横目でのぞき込んでいたが、ニアが洗面所と浴室の明かりを点けるとすぐさまそちらに興味を移して寄ってきた。
壁から床までクリーム色に統一された浴室はごく一般的なデザインだが、照明に照らされた狭く明るい室内は眩しすぎるらしく、メロはしきりに瞬きをしながら浴室に首を突っ込んで中を見回している。ニアはガスのスイッチを点けるとシャワーのコックを捻り、湯に手を浸して温度を確かめた。メロはもうっと湧き上がる白い湯気を見て奮い立つように鼻を鳴らした。
「服、脱ぐ」
「はい」
ニアが答えるより先にメロは羽織っていたニアの上着を脱ぎ去り、シャツにも手をかけて頭から引き抜いた。腕白盛りの子どものような手早い脱ぎ方をする。あまり裸になることに対する羞恥心はないのかも知れない。
ニアは戸棚から柔らかなバスタオルを取り出しながらメロに話しかけた。
「今まではどうやって体を洗ってたんですか」
「クラブハウスのシャワーを使って水浴びしてた。寒いときはあんまり浴びてない」
膝に巻いた布をぐるぐる解きながらメロはあっけらかんとした様子で答えた。
大学は夜間給湯が止まるので冷水しか浴びられなかったのだろう。夜でも湯が使えるような施設は施錠されている。
メロ一人ではきちんとした入浴は望めないと悟ったニアは、自分もシャツに手をかけて洗濯籠に放った。
その横でズボンを脱ぎ裸同然になったメロは、手足の布を解きながら物珍しそうな視線をニアに注いだ。誰かの裸体を見るのは初めてなのかも知れない。ニアも服を脱ぎながら裸のメロを見下ろした。メロの体は年相応に体毛が生えているだけで、特に人と違う部分はなかった。性器も少々幼いが男性の形をしている。手足は細くしなやかに伸び、無駄な肉が付いていないため微かに隆起する筋肉が見て取れた。
ニアがズボンを脱いで全裸になると、メロは這ってニアに近づきしげしげと上から下まで眺めた後、脚の間に目を遣って「おんなじだ」と呟いた。
シャワーから出る湯が気持ちいいのか、メロは目をつぶって空のバスタブにぺたりと座り込んでいる。浴室の白い照明を跳ね返して銀色に光る湯がメロの金色の頭を濡らし、髪の毛の間を通って肩から腕へ、腹へと流れ落ちていく。メロは恍惚とした表情で全身を湯に光らせていた。
ほとんど夜にしか外をうろつかないメロの肌は抜けるように白い。しかし湯を浴びてうっすらと桃色に染まった肌は健康そうで、ニアのものと違って病的な印象なかった。つやつやと光る肌を純粋にきれいだとニアは思った。
もうもうと立ちこめる湯気からふんわりと湯のいい香りがして自分も湯を浴びたい気持ちになったが、とりあえずメロを磨くことが先決だ。
ニアは犬や猫を洗ったこともないし、ましてや人間など子どもですら洗ったことがない。これだけ大きい動物を洗うのは相当大変なのではないかと予想すると、忘れかけていた疲れが肩にのしかかる思いがした。言葉が通じるのと大人しくしてくれているのがせめてもの救いだ。
「メロ、手を出してください。あと、足をこっちに」
頭からつま先まで存分に湯に濡れたメロは、大人しく足をバスタブの淵に乗せて手を差し出した。ニアはボディーソープのボトルを取ってメロの手にかけてやる。
「石鹸です。こうして泡を出して」
ニアが教えてやるとメロは面白そうに手を擦り合わせた。汚れが酷いせいでなかなか泡立たない。ニアはもう一度メロの手にソープをかけると、自分の前に差し出された足にも数度ソープをかけて手で擦ってやった。
途端にメロは大きな笑い声を上げて足をばたつかせる。
「くすぐったい!やめろって!」
「…少し我慢しててください」
メロが足を振り回したせいで顔に石鹸と湯を浴びたニアは憮然としてメロの足を押さえつけた。メロは少し大人しくなったものの、ふふふと笑い声を漏らし続けている。くすぐったいのか、それとも茶色い泡を点々とくっつけたニアの顔が可笑しいのか判断しかねる笑い方だ。
コックを捻ってメロの手足とついでに自分の顔から汚れの混じった泡を流すと、ニアは湯を出しっぱなしにしたままシャワーを壁のホルダーにかけた。メロは嬉しそうに湯に手を浸していたが、背後から頭に冷たい液体をかけられて悲鳴をあげた。
「何すんだ!」
「シャンプーです。頭もきれいにしてもらいます」
「しゃ……いたたた!」
頭皮に指を立ててごしごし音がするほど泡立てると、メロはバスタブにうずくまってニアの手から逃げようとした。こうして肌を擦って洗ったことなどないだろうメロにとっては、体を洗浄し慣れたニアの力は強すぎるのかも知れないと思い、ニアは少し指の力を弱めた。
メロの金色の髪は意外に汚れていたらしく、ほとんど流動体になった泡がうっすらと茶色く染まってくる。もう少し量を増やそうとシャンプーのボトルに再び手を伸ばすと、メロが先程までと明らかにニュアンスの違う叫び声を上げた。
「いつっ!ニア!」
「どうしました?」
「痛い!ひりひりする」
メロはニアの方を向いて目を押さえている。どうやら下を向いたせいでシャンプーが目に入ったらしい。ニアはシャワーを顔に向けてやる。鼻や口にもろに湯を浴びたメロはぷはっと息をついた後盛大に咳き込んだ。
「目を開けてるからですよ。ほら瞬きしてください」
「ーーっ」
顔に流れた泡を洗い流してシャワーの水流からようやく目を離すと、メロはけほけほと咳き込みながらすっかり真っ赤になった目でニアを睨み付けた。
「もう嫌だ!終わりにする」
「まだ体も洗ってないでしょう。頭だって途中です」
「手と足を洗ったんだからいいだろ!あれこれ痛い目に遭わされるのはごめんだ!」
「それなら頭は自分で洗ってください。上を向いて擦れば泡は目に入りませんから」
ニアはメロの顎に手をかけて上向かせ、目元をフェイスタオルでぬぐってやった。そうするとメロは少し大人しくなったものの、打って変わって不機嫌そうに目を光らせている。髪の生え際辺りにゆっくりシャンプーをかけてやると、渋々先程ニアがしたように自分の手で髪の毛を擦り合わせ始めた。
「汚れが落ちるようにしっかり擦ってください」
「うるさい。さっきから指図ばっかりするな」
まるで幼児を風呂に入れているような錯覚を感じながら、ニアはメロが髪を洗っている間、自分の体にボディーソープを振り掛けて毛質の固いブラシで体を洗った。ニア自身は面倒なので頭は三日に一度くらいしか洗わない。
「できた」
ぶすっとしたメロの声に振り返ると、ほとんど90度近く首を曲げたまま天井を睨んでいるメロが目に入った。真面目に洗ったらしく泡もすっかり白くなっている。ニアは目をつぶるように言ってから、シャワーでメロの頭の泡を洗い流してやった。メロは湯をかけられるのは好ましいらしく、気持ちよさそうに大人しく目を閉じている。
「もう目を開けて大丈夫ですよ」
泡を流しきるとメロは頭に手をやった。すかすかする頭が不自然に感じるらしく、しきりに手ぐしで頭皮をかき混ぜている。
「だいぶきれいになりましたね」
「疲れた。返って汚れた気がする」
「次で最後ですから」
ニアは先程自分で使ったのと同じボディーソープのボトルを取ると、メロに振り掛けた。冷たかったらしく、背中に真珠色のソープがかかった瞬間メロはひっと息を飲んで身をすくませた。
ニアはバスタブに立てかけていた柄付きのブラシを握り、片手でメロの肩を押さえて背中をブラシの先でごし、と擦った。
メロは背中を反らせてぎゃっと悲鳴をあげると、泡の混じった湯を飛び散らせながら今度こそ浴室から飛び出していった。
「……」
全裸のニアは開いたガラス戸の向こうに点々と残る水の跡を目で追い、それから自分の手の中のブラシを見て小さく息を吐いた。とりあえず自分の体を洗い始めたニアの横では、滑稽な静けさを煽るようにシャワーが相変わらずザーザーと銀色の湯を降らせていた。
〈2005/07/15〉
ザ・インターバル。ニアが常識人だから変な感じがする。
話ぽくなるように今回少し妄想で補完…。