ニアは車窓から流れる夜景を見つめていた。
この辺りは先程の街と比べて明かりが少なく、その分たむろする人々の様子も数段爛れている。時折通り過ぎる自動販売機やハードロックカフェの明かりの前には、必ずと言っていいほど怪しげな煙を燻らせた若者達の集団がうずくまっていた。
メロも同じように、反対側の車窓から風景を見つめている。片肘を付いて決してニアの方を向こうとはしない。シートの真ん中で繋がった手に少し力を込めると、少しだけこちらに目をやって、すぐに興味が削がれたように外を見つめた。
ニアとメロの手は先程の袋小路からずっとつながれたままだった。無言で握りしめた手を見て、メロは「ガキじゃあるまいし」と不機嫌そうに眉根を寄せたが、積極的にふりほどくこともしなかった。手でも握っていないとまたメロがいなくなってしまいそうで不安だった。宿を探すために大通りに出てタクシーを拾った。呼び止めたキャブのドライバーはおつかいする子どものように手をつないだ自分たちをどう思っただろうか。それを考えるとおかしくて仕方がなかった。
移動している間、ニアもメロも一度も口を開かなかった。
ダウンタウンの端にある宿の一室は狭く、明かりをつけてもなお薄暗さを感じた。ベッドが二つ狭い空間にひしめき合うように置かれ、その横に小さなテーブルが申し訳程度にちょこんと置かれている。ただ寝るためだけの部屋という様相だ。
メロは部屋に入るなり持っていたビニル袋を玄関の脇に放り出し、もう片方の手に持っていたコークの蓋を開けて一気にあおった。ごくんという音とともに動く彼の細い喉を見ながら、ニアは玄関の前に立ちつくしたままだった。
宿に入る前に、メロはコンビニエンスストアの前で立ち止まった。
「店にチョコレート置いてきちまった」
そう言ってストアに入りかけ、すぐさま足を止める。ニアはどうしたんですかと言いかけて、メロがこちらを向いたので言葉を止めた。
「もう手は離してもいいんじゃないか?」
苛立たしげにそう言う。さすがにこのまま店に入りたくないらしい。
「・・・・・」
それでもニアは快く従えないでいた。考え込むように目線を落とすニアに、メロはニヤリと笑ってみせた。
「もう逃げやしねぇよ」
ニアが顔を上げると、メロはそれが合図のようにニアの手を振りほどいた。元々ニアが一方的に握っていたので黒手袋の手はすっとニアの手から放れる。ニアは店には入らず、外のショーウィンドウから店の中を動き回るメロの姿を目で追っていた。店内を一周し、重たそうなビニル袋をぶら下げてメロがストアから出てくると、ニアはほっと一つ息を吐いた。
玄関の前に放られたビニールの袋に目をやる。
放られたビニル袋の中には、何日も籠城できそうなほどたくさんのチョコレートが入っていた。それと冷えたコークがもう一本、シーザーズサラダ。これ以上ないくらい彼らしいメニューだ。ホットドッグが一つ入っているが、これはニアのために買ってくれたものだろう。施設にいた頃からメロは胸やけがすると言って進んで肉を食べようとはしない。マムに押さえつけられて暴れていたメロを思い出してニアはほんの少しだけ目を細めた。
一息ついたメロがコークのボトルから口を離した時にはすでに中身は半分以上なくなっていた。ん、とボトルをこちらに差し出す。飲むか、と訊いているようだった。ニアは大人しくメロの手からボトルを受け取り、口を付けた。久々に口にする炭酸飲料は嚥下するたびにバーナーで喉をあぶられているように感じられる。ニアは二口ほど飲んで、すぐメロにボトルをかえした。
「気持ち悪い。シャワー」
コークをテーブルに置いた後、メロは汗で体に貼り付いたレザーを不愉快そうに引っ張りながらそう言った。
どうぞ、と言おうとして、その前にニアは自分でバスルームの扉を開ける。換気扇の位置、蓋の大きさやロックに目をやって、それから馬鹿馬鹿しいと思い直した。そんな手間のかかる逃げ方をメロがするわけはない。一瞬で自問自答を終えるとニアは手でメロにどうぞと合図をする。メロはホテルマンのように甲斐甲斐しいニアの仕草に変な顔をしつつ、手を振って狭いバスルームの中に消えた。
水の音が始まっても、ニアはバスルームの扉の前から離れられないでいた。ドアの前でうずくまり、片膝を立てて水音が止むのをひたすら待った。メロがいなくなるのでは。母親の手を放れ一人で眠ることを覚えた子どものような恐怖心が崩れない表情の中に宿っていた。
2年前にメロが施設を飛び出した時はこんなことは思いもしなかった。メロはニアにとって間違いなく特別な存在だったが、彼がニアの視界から消えてしまっても、メロの言葉通りニアは冷静で無感情なままいられると思っていた。事実、この2年間ニアは変わりなく毎日を淡々と過ごした。すむ場所がイギリスからアメリカに移っても、ニアにとって何かが大きく変わるわけではなかった。
メロのことを思い出さなかったわけではない。ただそのせいで感情を揺さぶられるようなことは一度としてなかったはずだ。ましてや今のニアのように、子ども染みた恐怖を抱いたりすることもない。頭の隅で記憶のテープを巻き戻し、何か考えている時の彼の横顔を淡々と思い返すだけだった。
ただ、彼の夢を見て目覚めた朝は決まって頭の奥がくすぶっていた。そうしていつも、理由もなく同じ光景が浮かんでくる。ニアは朝の光の当たるベッドの中で、くすぶりが収まるまでいつもその光景を思い浮かべていた。初めて出会った4歳の時、ケットにくるまってニアのベッドに入り込んできたメロの顔だった。
“てんじょうのすみっこがまっくろなんだ”
そういって幼い彼は、小さなニアの手を握った。言われて見てみると、本当に何か恐ろしいものがそこに潜んでいるような気がして、ニアもぎゅっとメロの小さな手を握りかえした。
“こわい”
“こわいよ”
“いっしょにねよう”
4歳のニアとメロは、身を寄せ合うようにしてお互いの体を得体の知れないものから守った。ニアが誰かと一緒に眠りについた、最初の記憶だった。
髪の毛を弄っていた指が止まる。
ああ、自分は寂しかったのだと、ニアは今初めて気が付いた。
水の音が止まった。ニアは顔を上げる。ほどなくしてバスルームの扉が開き、メロが出てきた。メロはドアの前にうずくまっているニアを見て呆れたような顔をした。
「ずっとそこにいたのか?」
「はい」
「変な奴」
メロはニアの前を横切って、テーブルの上のコークに再び口を付けた。座り込んでいるのも変な気がして、ニアは立ち上がる。メロは先程はいていたのと同じズボンだけ身につけ、上半身は裸のままだ。きちんと水気をぬぐわないまま出てきたらしく、髪の毛の先から水滴が幾つも滴り落ちてカーペットを濡らした。
「お前も浴びたら。汗だくだろ」
「いいえ、私はいいです」
メロを一人でこの部屋に置いたまま湯を浴びる気にはなれず、ニアはそう答えた。メロはそんなニアの思考が読めたのだろう。むっすりした表情でニアを睨み付ける。しかしすぐに何か思い付いた顔をして、ニヤリと笑った。
「なんだよ、一緒にシャワーが良かったのか?とんだ寂しがり屋だな、ニア」
からかうような口調でそんなことを言う。メロらしいいつもの軽口のはずだった。
が、その言葉を聞いた途端にニアは周りの空気の温度が急激に上がっていくのを感じた。あまりの熱さに指先が火照り、何事が起こったのかと困惑する。チョコレートを取り出して銀紙を剥いていたメロは、何も言い返さないニアに目をやり、変なものを見るような目つきで見てから言った。
「・・なんて顔してんだよ」
「え?」
ニアの口調から困惑の色を感じ取って、メロは悪戯っぽく笑う。
メロはバスルームの扉の前に来ると、ノブを掴んでシャワー室の扉を大きく開いた。ぶわ、と音を立てて湯の良い香りが鼻を突く。
洗面台を挟んで、丁度ニアの正面に取り付けられた鏡が目に入る。上半分が薄くくもった鏡を見て、ニアは絶句した。
なんの感情の色もない目。いつも軽く結ばれた唇。そこにあるのは見慣れた自分の顔だった。ただ、ニアの白い肌は今まで見たこともないほど紅潮し、頬から目元、耳たぶの先まで熟れかけのトマトのように真っ赤になっていた。
「気持ち悪いぞニア」
パキン、とチョコレートを囓りながら顔をしかめてメロが言う。
「・・・・・はい」
ニアはどう答えていいか分からず、鏡から目を離さずに言った。
ニアのその返答がおかしかったらしく、メロは腹を抱えて笑い出した。メロが大笑いしている間にも、ニアは鏡から目が放せないでいた。鏡の中では、見たこともないような表情をした自分と、体を二つに折り曲げて笑うメロの姿が重なって映っている。メロの笑い声を聞いているうち、ニアは先程まで感じていた不安や恐怖が緩やかに解けていくのを感じた。メロはしゃくり上げながらニアの方を向いて笑う。
「ニア、気持ち悪い」
「はい」
ニアは軽く微笑むと、メロの唇に自分の唇を重ねた。そうするのが一番自然なことのように思えた。軽く触れたその部分は、程なく離れても微笑んだ形のままだった。メロは楽しそうにククと笑って、ニアの肩に手を回す。そうして再びニアの唇に自分の口を押し当てた。ニアがメロの背中に手を回すと、唇を割って舌が滑り込んできた。先程までチョコレートを囓っていたメロの舌は甘い。舌がこすれ合うにつれて甘ったるさは消え、メロと自分の唾液の味だけになる。
ひとしきりキスを楽しんだ後、メロはニアに手を回したままぼそりと呟いた。
「お前がこんな顔するなんて知らなかった」
ニアはそれを聞いて、また軽く微笑んだ。
「私も知りませんでした」
そう言って三たび、どちらからともなく口付ける。口付けはすぐに先程よりも深くなった。
シャツとカーペットのこすれ合う音を背中ごしに感じる。床に転がり、もつれ合うようにして二人は互いの唇を貪り合っていた。口付けるたびにひとつずつ自制心の留め金が外れ、抑制が利かなくなった。ニアは自分の上に被さっているメロの体を強く抱き、メロの口内を隅々まで確かめるように舌でなぞった。
舌の裏や上あごの歯列を舌先で辿ると、メロは鼻にかかった声を漏らす。その声は薄い筋肉を隆起させた滑らかな背中の感触と相まって、ニアの神経を興奮させた。長い口付けの後でようやく唇を離すと、メロの目はすでに潤み、欲望に飢えた動物の匂いを発している。どちらも軽く呼吸を乱していた。濡れた唇がてらてらと光り、ニアは再び触れたい欲求に駆られる。ぐいと湿った背中を自分の方に引き寄せ、再び口付けようとすると、触れる瞬間メロが問いを発した。
「お前さ、どっちがしたいわけ?」
「え」
そのままの距離で目を合わせる。ニアは虚を突かれたように感じたが、よくよく考えれば男同士なのだから当然の疑問だ。床に倒れ込み、メロがニアに馬乗りになるような格好で互いに激しくキスを求め合っている。確かに今の自分たちの状況ではよく分からない。ニアは少し想像を巡らせてから、答えた。
「どちらでもいいです」
「どっちもしたことあるのかよ」
ニアの答えを聞いてメロの目が険しくなる。
「いいえ、とても抱きたいですけど、メロは嫌がるでしょうから」
「俺のことをお前が勝手に決めるなよ」
メロの表情は険しいままだ。
「やりたいならやればいいだろ。俺は転がってる方が楽だしな」
気がなさそうにそう言ってニアにもたれかかる。ニアはそんなメロを見て少し考えてから口を開いた。
「メロ、きちんと考えて答えた方がいい。今の私は多分途中でやめたり出来ません」
それを聞いたところでメロが前言を撤回することはないだろうと分かっていた。その言葉は確認と前もった罪滅ぼしのような意味合いで、メロにもそれが分かったらしく、彼はふん、とひとつ鼻を鳴らしただけだった。
転がってる方が楽だと言ったくせに、メロは転がるどころかニアの首筋に音を立てて口付けたりする。ニアに対して常に優位を保ちたいと願っている彼のささやかな抵抗かも知れないと思うと妙に可愛らしく感じる。
浮かせた腰の奥に指を滑らせると、メロはニアの肩口に額を押しつけた。彼に合わない仕草だと不審に思いつつ、体液で濡らした指を入り口に押し込む。思った以上の抵抗があってメロの体はびくりと硬直する。はぁ、と彼が苦しげに息を吐くのを腕の付け根の辺りに感じた。押し入れたままの指を前後に動かすようにすると、それだけでメロは逃げるように微かに腰を揺らす。入り口は不器用にひくついて、どこに衝撃を逃がしていいのか分からないようだった。経験のないニアでも分かる。どう考えてもメロもそこを使ったセックスの経験が深いようには見えなかった。
「メロ、本当に誰かに抱かれたことあるんですか?」
そう訊くとメロは肩口にひっつけていた顔を上げてニアの顔を見、眉を顰めて笑った。
「ベッドで昔のことを聞く男は嫌われるぜ」
息を乱してそんなことを言う。しかしすでに慣れたポーズだということはニアには分かっていた。それが分かっているメロはつまらなそうにニアから目を離す。先程一度達したお互いの体液を指に絡め、ニアは出来る限り奥へ指を潜り込ませた。大きく息を吐きながらもメロはむきになって平静を装おうとしている。金色の髪が汗で額に貼り付いているのを見て、ニアは先程のチェイスを思い出しひどく高ぶった。自分の上に跨っていたメロの体を床に押しつけ、人形のように細い足を持ち上げる。押し入る瞬間、メロは楽しげに笑っていた。
「あ、あ、あ」
ニアが腰を掴んで揺さぶるたびにメロは切れ切れの声をあげる。その声色に快楽は欠片もなく、純粋に痛みから漏れる悲鳴だと分かった。手加減してやりたい気持ちはあったが、予想通りそんなことができる状態ではなくなっていた。メロの体を逃げられないように床に押さえつけ、ぎしぎしと軋みそうなほど締まる内部を蹂躙する。喉の奥から掠れた悲鳴があがり、それに合わせてひくつく内壁に溶けそうになる。メロの唇は助けを求めるようにぱくぱくと動いたが、結局その唇から意味のある言葉が発せられることはなかった。代わりに悲鳴を堪えるように白い歯を噛みしめている。体重を支えているニアの腕にメロの指が食い込み、振り落とされないようにさらに上へ縋り付いてくる。その痛みにさえ追い上げられながら、ニアは溺れかけたときのような呼吸をして、メロの中で果てた。
ようやく止まった動きにメロは安心したように深く呼吸した。ニアはぐったりとメロの体に覆い被さり、呼吸に合わせて揺れる薄い胸に顔を押し当て、どくんどくんという心臓の音をぼんやり聞いていた。汗ばんだ肌がこすれて、うっすらチョコレートの甘い香りがする。少し辟易しつつもニアの体はその香りに酔った。ゆっくり体を離そうと顔を上げた時、メロが悲鳴を上げる。
「いっ・・!やめろ、まだ動くな」
慌ててメロは自分の方からニアの腰を引き寄せる。一旦緊張が解けて緩んだ壁が擦られて痛いのだろう。しかしニアの方は包み込まれた部分を痙攣するように刺激され、再び欲望が噴き出してくるのを感じた。
メロもそれが分かったのだろう。ニアの顔をのぞき込む。口付けると喉をひくつかせ、腕を絡めてきた。再び動き出したニアに、メロは身を強ばらせつつも一切抵抗は見せなかった。
ニアがメロのシンボルに指を絡め、メロが細い声をあげて2回目の絶頂を迎えた時、ニアもすでに3回目の射精を終えていた。自分の下で余韻を味わうように荒い呼吸を繰り返すメロを見て、ニアはもう一度肌を重ねる。メロの唇が何か言いたげにすぼめられたのを見つけて、ニアはそこに耳を近づけた。メロはばつが悪そうに少し逡巡してから、ニアの耳元に唇を寄せた。
「背中が痛い。ベッドに行こう」
そう言った。
それから丸一日あまりの間、眠ることと食べること以外の時間はすべて抱き合って過ごした。食事に出る以外、部屋から出ることもしなかった。はじめ苦痛にまみれていたメロの表情は、挿入を重ねるたび少しずつ高ぶりを見せるようになってきた。お互いの体が馴染んで、二人はパズルピースのようにぴったりくっつく快感を覚えた。
テレビもラジオもない部屋で一切の情報を断ち切って過ごすのに、何の不安もなかった。互いの体を貪り合うのに疲れると、シーツにくるまって額を寄せ合い、謎かけ話をして過ごした。不機嫌になったかと思うと一瞬後には勝ち気に笑い、あどけない仕草の中にニアを煽る色香を見せる、彼を見ていると2年間の空白が嘘のように感じられる。
狭く薄暗い部屋はまるで二人の隠れ家のようで、ニアは普段は使われなかった施設の屋根裏のことを思い出した。メロは小さい頃に一度、マムを心配させようとして友人と屋根裏に隠れて朝から夕方まで出てこなかったことがある。それを思い出して口にすると、メロは忘れてた、と一言漏らした。退屈すぎて我慢できなくなった、とつまらなそうに言ってから、ニアと一緒だったらひと晩くらいは保ったのかもしれないな、と冗談めかして笑って見せた。例えそうしていたとしても、おそらく喧嘩になってメロはすぐに飛び出していただろうとニアは想像した。メロも同じことを思ったらしく、二人でふ、ふ、と笑い合った後、口付けた。そこにいる間中、ニアの唇もメロの唇も乾くことがなかった。
食事のために外に出る時二人の手は離れたままだったが、もうニアは不安を感じなかった。慣れないジャンクフードを口にしながら、街の空気に触れるメロを見ていた。安っぽいアスファルトで舗装された路上を闊歩する彼の姿はまるで騎兵隊のように堂々としていて街の雰囲気に良く合っている。自分の属さない外界に触れる彼を見るたびニアはちりちりとした焦燥を感じ、それと同時にひどく情欲をかき立てられ、部屋に戻ってドアーを閉めると必ず乱暴に口付けて絡み合った。
施設での思い出話以外、これまでのこともこれからのことも二人とも一切口にしなかった。
二日目の夜、すっかり二人の体臭とチョコレートの匂いが染みこんだシーツにくるまって、ニアは幼い頃読んだ本の題名を延々と頭の中に並べ立てていた。メロはバスルームから出てきた後、何の気まぐれかもう片方のベッドに倒れ込んだ。
「今日は別々に寝るんですか」
ニアがそう言うと、メロは指でこちらに来るようにサインした。
「お前のせいでしばらく立てない」
冗談とも言い切れない台詞を口にする。ニアはヤドカリのようにシーツにくるまったままメロのとなりに潜り込む。フッドスタンドを消すと部屋は水の底のように暗くなった。
「もう怖くない?甘えん坊のニア」
喉を鳴らして、メロが笑いながら尋ねる。答える代わりにニアは口付けた。頭からシーツを被り、悪戯の計画を練る子どものようにくすくすと笑う。真っ暗闇の中で唇が離れた。
「グッドスリープ、ニア」
それが最後に聞いた彼の言葉だった。
次の朝目がさめると、メロがいなかった。
ぼんやりした思考の中、となりにメロがいないことを夢の中のことのように感じた。不思議と慌てる気持ちはなかった。ニアはいつものように無表情で、起きあがってベッドに腰掛け部屋を見渡した。首を動かさなくても全てが見渡せるほどの狭い部屋で、メロが隠れる場所などありもしないと分かっているのに少しの間そうした。
ニアは立ち上がり、バスルームの扉を開く。分かってはいたがそこにもメロの姿はなかった。服はもちろんのこと、昨夜買ったチョコレートやコークも消えていた。
「・・・・・」
なんの感慨も湧いてこなかった。
ニアは再びベッドに腰掛け、少しの間ぼんやりする。と、シーツの端に、切り落とした爪の先程の大きさのチョコレートが落ちているのが目に入った。その破片を人差し指で拾い上げ、しげしげと眺める。たいした時間もかからず、チョコレートの欠片は人差し指の上で溶解する。舌先で舐め取ると喉が灼けるほど甘かった。
丸二日。たったそれだけの間メロと自分は一緒にいた。チョコレートの甘みでニアは現実に立ち戻る。
二日前、ダウンタウンの中心で捜査官達と一緒に情報収集をした。
昨日、メロと額をくっつけて笑い合った。
ニアの喉の奥でチョコレートが油とカカオに分離する。夜の街の袋小路で、ニアを拒絶したメロの獣じみた瞳を思い出す。
メロは自分を油断させるために丸二日一緒にいたのだろうか。
ぷくりと浮かんできた黒いあぶくをニアはすぐさまうち消した。
そんなことがあるわけはない。二日前の夜、メロとニアは確かに同じ事を考えて走っていた。7歳の頃、相手に勝ちたいという一心で走ったグラウンドのように、ダウンタウンの暗い路地を足が棒になるまで走った。
あの時の一体感を体が覚えている。ニアの思考はメロの思考だ。根本的なところで自分とメロは一つの生命体として繋がっている。今のニアはごく当たり前のようにそう思っていた。
だからメロは楽しんでいるだけなのだ、この追いかけっこを。またいずれニアの目の前に金色の髪をちらつかせて追わせるのだろう。軽快に夜の街の光を遮って、空を飛ぶように走るメロの姿が灼き付いている。
ニアは目を閉じて重い腰をあげた。
メロが本気で逃げるのならニアも本気で追わなければ捕まらないだろう。それでも勝算はあった。一度は捕まえられたのだから。
仕方ない。
物心付いた時にはもう出会えてしまっていたのだ。数年間の空白くらいは当たり前だ。これぐらいの試練は甘んじて受けなければ。
ベッドに手をあてる。シーツはまだ温かだった。遙か昔のように感じられる二日前の夜、フェンスの下で掴んだメロの手の温もりと同じ温度だ。
少しの間ニアはそうしていた。唇の裏で秒読みをする。ゴー、の合図と共にニアは踵を返し、靴音高く部屋を後にした。
《終》
〈2005/06/02〉
テーマは「気持ち悪いニア」と「前向きなホモ」で。急いで書かないと来週辺り本誌で
二:「メロ・・・」
メ:「よう、四年ぶりだな・・ニア」
とかいう事態になりかねませんからね。現在進行形のジャンルってスリリング。
ただね、原作の前にこんなのがあったらいいなと思ったんです。そうでないと本誌でメロ病末期状態のニアさんが怖い人になって・・・いやこれでも充分怖い人だけれど・・・。
これ以降仕事を真面目にするニアさん。仕事=メロ探し。合理的。