Last Chase
ワシントンD.C、シアトル
中心街からハイウェイを飛ばして20分。車はダウンタウンに降りたがそれでも合衆国屈指の大都市だけのことはある。日が沈むに連れて、街は昼間とは違った風景美を主張しはじめた。
居丈高に立ち並ぶ高層ビルは、人を飲み込むために発光する深海魚のように見えた。ニアは人工の光を美しいと思ったことはない。チカチカ安っぽく光るネオンやギラギラと肉食的なイルミネーションに何故みんな惹きつけられるのかまったく理解できなかった。うじゃうじゃと地を這う群衆は夜の暗がりの中恐ろしくて灯りに群がる昆虫の群を彷彿とさせ、生物としての走性の名残だろうと無理に納得すると、そのたびに人間は原始的な生命体の一つなのだという思いが湧き上がりひどく醒めた気持ちになった。
昼の間よりも明るく光り輝くこの街も、人の足下を照らすことしかできていない。ほんの3000フィートも飛び上がれば豆電球のようだ。それでも照らされて見えるものしか手に取ることが出来ない暗愚な自分を知っているだけ、ニアは不幸だという自覚があった。今や生きる意味とも化したこの仕事が好きになれないのは、この街と、この街が飼っている人間という生きものがどうしても好きになれないからだろう。取るに足らない生命体に囲まれて過ごすよりも、自分の身一つで物と向かい合っている時間の方が、ニアにはよほど貴重に思えた。
「N」
運転席の男が、ニアに声をかける。時間だ。ニアは手の中で弄んでいた知恵の輪を傍らに放り出した。
「通信つなぎます」
「よろしくお願いします」
ニアは右耳を軽く抑え、ワイヤレスイヤホンを固定した。すぐさま耳殻の中に耳障りな笑い声が流れ込み、それを遮るようにくぐもった男の声が聞こえた。
『はい。こちらN23』
「N01です。1040、約束の時間から10分経過しました。そろそろ接触して下さい」
『了解しました』
「貴方のいる向かいのバーですね?」
『はい。一番奥の窓際にいると6時間前に連絡がありました』
「上出来です。会話は確実にこちらに聞こえるようにマイクの受信音量を最大にしてください」
『はい』
途端に周囲の雑音が激しくなる。けたたましい若者の笑い声が高くなり、ニアは顔をしかめて音量を絞った。
確認するように続ける。
「R3がフロリダの密売ルートに絡んでいるかどうか、最低限それだけの情報が得られればそれ以上追求する必要はありません。無駄な欲を出さないよう」
『心得ています』
「くれぐれも気をつけてください。ただの情報屋ではない可能性もあります。相手が本当に第三者かどうかの確証を得られるまでは核心に触れないように。マフィアの便利屋として振る舞ってください」
『了解です。N』
黒く塗られた後部座席のガラスを通してバーのべったりとしたネオンが透けて見える。程なくベージュ色のコートの後ろ姿が近づき、ニアの乗ったBMWを横切ってネオンの方へ近づいていった。向かいのカフェで待機していた先程の捜査官が、交渉相手と待ち合わせのバーに向かったのだ。
ニアは手元の機械を手探りで弄り、再びワイヤレスイヤホンの音量を上げた。ニアの指の動きに合わせて、表の雑踏がその場にいる以上の大袈裟さで鼓膜を打った。
コートの胸ボタンの糸目に仕掛けてある集音マイクを通して、バーのクラシカルなドアーが開く音がした。ニアは横目で前の通りを見、目当てのバーのドアーを確認する。毒々しく赤いネオンの下にコートの裾が消えるのが目に入った。
「・・・・・・」
バーのウィンドウはすべて濃い色のブラインドが敷かれている。時折いくつかの影が揺れ動き、中に人がひしめいているのが分かるが、椅子に腰掛けてしまえば捜査官の姿はほとんど確認できないだろう。ニアは全身を耳にする。イヤホンからは気違いじみた女の高い笑い声と、下卑たスラングがひっきりなしに聞こえてくる。
『ここ空いてるか』
先程の捜査官の声が聞こえる。交渉相手に接触したのだろう。マフィアの温床に入り込み、情報を聞き出すことが彼の仕事だ。ドスをきかせた彼の声は、邪魔な商売女を追い払うためのものだったようだ。なによぉ、と不機嫌を装った女のべたべたした声がイヤホンの向こうで通り過ぎる。
と、ククと詰まった音。どうやら近くにいる誰かが笑っているようだ。相手のものかも知れない。ニアは音量を最大にした。
音波の調子で女の声ではないと分かったが、その声は随分と高い。集音マイクが忠実に拾う、熟し切って爛れた人声の中で完全に浮いていた。
『丁度いい。俺は今帰るとこだ。10分以上待たされるのは我慢がならねぇよ』
交渉相手だ。
そう思うのと同時に、ニアの中で今までにないざわめきがあった。
少年の声だ。でもこれは。
ニアの動揺とは裏腹に、捜査官はいつも通り着実に相手の懐に入り込もうとする。
『まだガキじゃねぇか。話が違うんじゃないか』
『話が違うと思うならお前が帰りな。どっちにしろ金に見合う情報しか出さないけど。俺は』
少年の声を聞くたびに、ニアは鼓膜を爪で引っかかれるような感じを覚える。二年間似たよう捜査をいくつもしてきて、一度も感じたことのない動揺をその声は誘っていた。横目でバーのウィンドウの一番奥を探す。
『いっぱしの口聞くぜ』
『情報の保証だろ?』
少年の声はニアの鼓膜を通りすぎて脳幹を直接掻きむしるように響いた。ニアは首を動かしてバーの方を見る。
『・・・まぁ金次第なら話が早い。何か飲むか。バーボンにミルク?』
捜査官の茶々で機嫌を損ねたのか、少しの不自然な間があってから少年の声がはっきりと右耳に響いた。
『チョコレートリキュール』
指が勝手に後部座席の窓を開いた。
「N?」
低く諫める運転手の声もニアを邪魔する雑音でしかなかった。脳幹をがんがん揺すぶられ自分自身を制することができない。飽きたらずニアはロックを外し、歩道にふらりと歩み出た。
『さて、取引に入る前に確認したいことがある。なんでお前みたいなガキがこんな危ない話に乗っかってるのかってことだ』
N!という慌てた声がずいぶん後ろで聞こえる。
『もちろん金さ』
『ガキの小遣いにしちゃずいぶん多いと思うが?』
『仲間が多いもんでね。俺のところは』
ブラインドの向こうで、イヤホンの声に合わせて影が動く。僅かな隙間から人を馬鹿にしたような笑いに合わせて揺れる小柄な影が見えた。ニアは足を速める。
『それと、・・・俺たちはR3が潰れてくれればそれでいい。あいつらのおかげで食いっぱぐれさ』
『なるほど』
『お前らと利害が一致しないか?』
ククッと笑い声が聞こえる。
『そうだろ?FBI』
『な?!―――』
イヤホンを通して扉が壁にぶつかるくぐもった音が右耳に響いた。それと同時にニアの左耳はクリアに音を拾っていた。
右手の平に軋むドアーの震動を感じながら、左手が勝手に視界を邪魔する人間を押しのける。そんな自分を認識することすら出来なかった。
店中の視線がニアの華奢な体に注がれていた。奥のソファーの上、丁度ニアの直線上に座る、サングラスをかけた金髪の少年が目に飛び込んだ。サングラスの奥に、小さな顔に不釣り合いなほど大きく見開かれた青い目がありありと想像できた。
ニアと少年は数秒間凝視し合っていた。
まだ筋肉の付ききっていないしなやかな腕を下品に剥き出しにして、身を包む黒のレザーが照明を反射する。ニアの中で最も下らないもの、タバコやハッシシの匂いに良く合う衣装。ただ淡く光を放つ金色の髪には微妙に不釣り合いを感じる。そう思った瞬間、足下に転がった趣味の悪いグラスからチョコレートリキュールの甘ったるい香りが漂ってきて鼻孔の奥にへばりつく。ニアは満足した。
ああ、これなら君にぴったりだ。
「メロ―――――」
次の瞬間、グラスや皿を巻き込んでテーブルがひっくり返る。ガラスの割れる音やキャアという悲鳴と共に彼の姿が一瞬視界から消えた。
ハッとカウンターに目をやると、コンマ数秒遅れで金色の頭が奥に消えるところだった。彼が裏口を目指したことは明らかだった。ニアは迷いもせずにカウンターを乗り越える。N!という捜査官の声が耳に入ったが、それが自分を呼んでいると気付いたのは、腰を抜かすバーテンを踏みつけにしてネオンの下に飛び出した後だった。
洪水のように流れる光の中、メロの姿は泳ぐように進んでいく。その20メートルほど後をニアは必死で追っていった。
浴びせられる悲鳴や罵声はすべて無視した。彼らは全てただの障害物でしかなかった。車のヘッドライトに色とりどりのネオン。それらを浴びてふさふさと揺れる彼の金髪はニアを導く目印のようだった。
バーでの出来事は幻覚ではないのか。そんな疑問が浮かんでくる。実際黒く染まった夜空にくり抜かれた街の情景は空想じみていて、おとぎ話の1ページのように出来すぎていた。もしくは彼が出て行ってから何度も見た夢の中なのではないか。夢に出てくるメロは、いつものようにニアをからかい、怒り、笑い、散々翻弄して安心させた後フッと消える。今のメロはそんな蜃気楼のようなものではないのか。
ニアは次々とあぶくのように浮かんでくるそれらの疑心をうち消しながら必死で追った。あれはメロだ。ニアの全身の細胞が叫んでいる。
メロの方も必死で逃げているようだった。行く手を阻む人混みを乱暴にかき分け、クラクションを一身に浴びながらネコ科の肉食獣のように身を躍らせる。汚らしい金属と虚飾に満ちた街の中で、メロは美しい野生の生き物だった。
群衆の密度が濃くなる。ニアを導く彼の目印が人影に紛れて見えなくなる。これを狙っているのだ。そう思うだけでぞくぞくする。メロだ。間違いなくメロだ。苦しげな息の下でニアは歯をむき出しにして笑った。
メロの姿が見えなくなるたび、ニアは自分が逃げ込みそうな路地を目指して人混みを掻いた。危惧を感じながらもう一掻きすると、黒ずんだ人の塊の隙間から鮮やかな金色の髪が見える。ニアの背筋をこの上ない幸福感が駆け上る。感じていた危惧はメロの姿が覗くたびに無いも同然となり、代わりに不思議な一体感が全身を爆発的に駆け巡った。建物の中に入れば撒ける。何度かそう思ったが、何故かニアの足は雑踏を選んだ。そうしてメロの姿は必ず雑踏の中から浮かび上がった。何故か。疑問に答えるのは今は直感だけだった。
ぜぇぜぇという自分の声がだんだん浮き彫りになってくる。気のせいか、彼の息遣いまで耳元で聞こえてくる。ふたつの震える呼吸は一定の間隔をおいて重なって聞こえた。心地よく耳を傾けながら走るうち、ニアの脳裏に記憶の断片が蘇る。
ニアの記憶の中で、ニアは7歳だった。
近くのスクールのグラウンドを借りて、ニア達はよく走力を競った。一番早く一周した者が勝ち。そういうルールで子どもたちはがむしゃらに土を蹴った。ニアは長距離の方が得意だった。瞬発的な筋力で決まる短距離走は仕掛けどころを間違えば必ず負ける。ニアはそこに来るたび、珍しく真剣に体を動かしていた。
“お前遅いのな”
ほんの10分の何秒か先にゴールしたくせに、メロはこちらを見てそう言う。その後で次々にゴールしていく友人の顔などニアは覚えてはいない。ぜぇ、と息を乱して7歳のニアはメロを見る。
“そんなに変わりません”
“でも僕の勝ちだ”
“分かってます。でも次に勝てば引き分けです”
自分らしくない言いぐさだ、とあの頃も今も思う。でもメロは決まってムッとする。そのすぐ後で不敵に笑ってみせる。そうして二人でスタートに戻る。勝率は大体4割だった。メロも自分も必死だった。
違法駐車のボンネットを飛び越えて車道を斜めに横切るメロの姿を、人々はため息をついて見送った。その後ろ姿を見ながら、メロは楽しんでいるのだ、とふいに気付いた。
メロはいつも自分を追いかけていた。ニアはニアのことで視界を塞がれているメロを見るのが好きだった。それはメロに視界を塞がれている自分を自覚していたからだ。メロはいつも自分を追いかけていた。そうなるようにニアは仕向けていた。一番になることはメロより前に出ることと同義だった。決して追い越せないようメロの力を測りながら、ニアはメロの目の前に立ちはだかった。だからメロはニアよりも先んじることができたとき何よりも楽しそうに、残酷に笑う。メロの背中を追っている自分、今のチェイスはメロの理想の具現じゃないのか。
そうはさせない。
ニアは腿に走る痛みを断ち切るように追った。ここで見失えばもう次はない。強くそう思った。
雑踏は次第に薄らぎ、メロは闇に紛れて逃げる獣に姿を変えて走った。雑居ビルの間に挟まれた夜空に、先程までは見つけられなかった星が見える。一定の間隔を保ったまま、二人はビルの隙間を縫うように走った。角を曲がるたびに肺が痙攣するように引きつり、ニアはだんだん付いていくのがやっとになる。数インチずつメロとの距離が広がっていくのを頭の隅で理解した。いやだと呟く精神とは裏腹に体は今にも前に倒れ込みそうになる。闇色だった目の前の風景が少しずつ白く染まっていく。限界を意識したそのときだった。
角を曲がってニアは目を見開いた。行く手を塞ぐように立ちはだかるフェンスの下で、メロがこちらを向いて立っているのが見えた。
ゴールだ。勝ったのだろうか。
膝ががくがくと笑い出す。足を止めると全身の毛穴から熱い汗が噴き出てニアのシャツを濡らした。こちらを向いて肩で息をしている、メロの体からも汗が滝のように滴っていた。金色の髪が紅潮する頬に貼り付いてとても綺麗だ。汗の匂いに混じって甘い香りがした。
「メロ・・・・」
喘ぐように名前を呼ぶと、黒い手袋に包まれた指がぴくりと動いた。サングラスはとうの昔に人混みに飲まれたようだ。剥き出しにされた目は傷を負った獣のような鋭さでニアを捉え続けている。
「ああ、やっぱりメロだ」
これだけ追いかけっこを続けておいて間抜けな台詞もあったものだ。ニアは言葉を探した。メロに話したいこと、聞きたいこと、忠告しておきたいこと、この二年あまりの間考えなかったわけではない。しかしどれ一つを取って、今のニアとメロに意味のあることとは思えなかった。
「メロ」
三度の呼びかけでメロは微かに身じろぎした。ニアの出方を待っている。その体は今にもフェンスをぽーんと飛び越えて、虚空に消えてしまいそうな気がしてくる。現実には起こりえない光景があまりにありありと想像できて、ニアは時を焦った。
「私と来てください、メロ」
その言葉が終わるか否かの時、メロは大きく動いた。
メロは大きく飛びすさって、ニアとフェンスとの間に出口をこじ開けようとする。その手にはいつの間にか小型のバタフライナイフが握られていた。フーという手負いの獣の息遣いがメロの喉から漏れる。ニアはそれで動けなくなる。メロが汗にまみれて興奮しきっているのが分かる。メロは全身でニアを拒否していた。今の彼の手にあればゴム製のジョークナイフだって凶器になるだろう。メロが激昂するのも無理はなかった。自分だって先程から普通の精神状態ではなかったのだ。そこまで考えて、ニアはようやく言葉の選択を誤ったことに気が付いた。
ああ、メロにしてみれば当然だ。仕方がない。
唇の裏でそう呟いて、口の端を持ち上げるようにしてニアは笑った。今にも駆け出しそうな彼を前に途方に暮れている時間など無かった。
すっとニアは右手を顔の高さに持ち上げる。その手から、右耳に付いていたワイヤレスイヤホンがカシャリと落ちた。
「?!」
メロは困惑した表情でコンクリートの上のイヤホンを見る。通信はとうの昔に切断し、ただのプラスチックの塊と化していたがメロの落ちつきを得るには十分だ。
ニアはさらにポケットから通信機を出し、それもコンクリートの上に放った。シャツの襟ぐりにかろうじてぶら下がっていたワイヤレスマイクもその上に放った。それから思い出して、上着のタグの内側を探り、小指の爪のような発信器も放った。
メロは新種の生物を見るような目でニアの動向を見つめている。
ニアは足先でそれを一カ所に寄せ集めると、思い切り踏みつぶした。
「・・・・・・」
ジジッと音を立てて電流が途絶えるのと同時に、メロの瞳からも獣のぎらつきが失せていくのが分かった。
「メロ」
もう一度呼ぶと、メロは小さく舌打ちをする。
ナイフがメロの手を放れ、地面に斜めに突き刺さった。
ゴールだ。
今度こそニアはそう思った。
〈続き〉→
〈2005/06/01〉
10行ごとに一つは笑いポイントがある気がする。むしろこのページを開いた瞬間に爆笑されるんじゃないかとハラハラしていますがどこをどう直せばいいのか分からない。
すげぇ楽しかった。イヤホン越しに「パキッ」と言わせなかっただけ冷静と思って・・。ニア・メロにこういう下積み時代があったらいいですね。
SPKはどうやら2009年に出来たようなので、ニアを勝手にFBIで見習い期間てことにしちゃったよ。色々間違ってたらそのうち補正するかも知れません。
SPKはロスにあると思って同じ西海岸に設定したんですが別にロス市警にいるとは限らない・・のか。どこにいるのニア(苛。
後半は一応初恋で初キスで初夜の予定ですが、なんかもういいじゃんっていう気持ちも・・・あるようなないような。